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宝満山は筑紫野市と太宰府市にまたがる山で、標高はおよそ830m。
神様がいる山として、山伏たちから修験道の聖地としてあがめられてきた。

別名「御笠山」(みかさやま)、または竈門山(かまどやま)とも呼ばれてきたが、由来は「山の形が笠やかまどに似ている」、「神功皇后の出産時に竈門を立てた」など諸説ある。

登山途中には松尾芭蕉の句碑、中宮跡、馬蹄石などがあり、山頂からは大宰府、筑紫野の美しい景色が一望できる。

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(毛利氏の北九州進出と宝満山城、高橋鑑種)
宝満山は、戦国時代には大友氏の家臣・高橋鑑種が城を築き、軍事拠点となったことでも知られている。

1557年に大内氏が滅亡した後、豊後の大友義鎮(宗麟)は筑前・豊前の制圧を進めていたが、一方、中国地方では、毛利元就・隆元親子が周防・長門の完全制圧を進めていた。
両家は、お互いの勢力拡大を黙認するよう水面下で約束していたが、国境を接するようになると緊張が増し、戦乱が激化する。

大友氏の中国地方(周防・長門)侵略を恐れた毛利氏は、筑前から亡命してきた秋月種実、筑紫惟門らを大友の防波堤にしようと画策。旧領回復の後押しをする。
この結果、秋月、筑紫は各々の城を回復。他にも、筑前の宗像氏貞や麻生隆実、豊前の長野弘勝などが毛利氏に寝返った。

こうした動きに対し、大友氏は高橋鑑種を宝満城、岩屋城の城督として筑前に派遣。
両家は豊前・門司城を巡り、攻防を繰り広げるが、最終的に毛利氏が奪取に成功、大友氏は敗北を喫する。

そんな不安定な情勢の中、大友氏の筑前司令官とも言える立場にあった高橋鑑種が、突如、毛利氏に寝返る。
理由は、実兄を義鎮に殺害された怨恨とも、大友氏から独立しようとする野心だったとも言われているが、毛利親子にとっても意外だったようで、「高橋存じも寄らざる儀申し越し候」との言葉が残っている。

鑑種に呼応した動きも見られる中で、大友氏は門司城・苅田松山城を攻略すべく戸次鑑連(立花道雪)を豊前に送ることで対応。
この2城さえ落とせば、周防・長門と筑前が遮断されるため、筑前の反乱分子を孤立させられるからだ。

門司城では攻防が続き、最終的には毛利氏が守り抜くものの、将軍・足利義輝の仲裁もあり、大友・毛利は講和を結ぶことになる。
毛利氏は、元々中国地方での領土維持のため、門司城を確保するのが狙いだった。それが達成された以上、出雲での尼子氏との戦いに注力する必要からも講和は是非したい。
一方の大友も、不安定な筑前支配を盤石にするため、講和は望むところだった。

こうして毛利氏の後ろ盾が無くなり、進退窮まった高橋鑑種は大友義鎮に降るが、高橋家の家督を剥奪される。
当主を失った高橋氏の名跡を引き継いだのが吉弘鎮理だ。名将として名高い、後の高橋紹運である。

残念ながら、現在、城の遺構は殆ど残っていないが、岩屋城跡、高橋紹運墓と合わせて、訪れたい山だ。