1865年2月、この地にいわゆる五卿(三条実美、三条西季知、東久世通禧、四条隆謌、壬生基修)が落ち延びてきて、3年間滞在。
大宰府が尊王攘夷の拠点となったのは、五卿西遷之遺跡、御茶屋(本陣)跡などで書いた通り。
この間、西郷隆盛、高杉晋作、そして坂本龍馬といった面々が三条らを訪問。
月形洗蔵ら、福岡の志士たちも、彼らとやり取りをし、薩長同盟の下地も作られていったと思われる。
ところで、上述の説明だけだと、五卿だけが命からがら落ち延びてきたように思われるかもしれないが、実際には五卿一行は、お供を連れた総勢66名で、それを福岡藩士たちが護衛するという大掛かりなものだった。
彼らの滞在費は、一切藩持ちということで、福岡藩は肥後熊本他、いくつかの藩に支援を頼んでいる。
滞在中、五郷の面々は、二日市の温泉に行って接待を受けたり、現在の大野城市にある乙金村の大庄屋・高原家にもしばしば訪問している。
山家宿の山田家を訪問し、滝を眺望できる景色を堪能したり、通古賀の陶山家で遊んだり……と書いていて「あなた達は何しに来たんですか?」と言いたくなるようなバカンス……もとい謹慎の日々を過ごしている。
1867年12月、彼らはおよそ3年間に渡るリラックス生活……もとい謹慎の日々を終え、大宰府を出発することになる。
去るにあたっても、彼らは筑前と肥後藩から計600両と博多織その他、その他支度料として800両を5藩から送られたそうだ。
なお同地は現在、太宰府天満宮の社家・西高辻家の邸宅となっている。
なお同地は現在、太宰府天満宮の社家・西高辻家の邸宅となっている。
参考文献:「ものがたり・大宰府の歴史」 (海鳥社)