好いーと九州

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カテゴリ:大分 > 史跡

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咸宜園跡で書いた通り、当初は長福寺の学寮、続いて大阪屋の部屋を借りて私塾を運営していた広瀬淡窓であったが、評判が高まり入門者が増えたため、1807年、26歳の時に、豆田うら町に新たな塾「桂林園」を建築した。
後に咸宜園に移るまでの約10年、淡窓は、よりきめ細かい塾則の制定や、子弟への学問・生活両面での指導に力を注いでいった。

淡窓の有名な「休道の詩」も、この地で作られた。

休道他郷多苦辛
同袍有友自相親
柴扉暁出霜如雪
君汲川流我拾薪

異国で苦労が多いなどと言うのはやめよ。
仲間たちがいて、自然と助け合いが生まれる。
夜明けに柴の戸から出れば、霜は雪のように積もっている。
君は川で水を汲んできてくれ。私は薪を拾おう。

この詩、実は亡くなる直後に一部書き換えられている。
それが「休道」、「柴扉暁出」の2カ所だ。
「休道」は「莫道」から改められ、「柴扉暁出」は「柴扉暁闢」から改められた。

塾生たちを励ます詩だけに、淡窓自身の一語一句への拘りも大きかったのだろう。

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<商人の町・日田>
日田は、隣接する多くの国境と河川により、古くから交通の要衝であった。
このため、豊臣秀吉は、直轄の支配地とし、江戸時代にも当初は譜代藩領だったが、五代・綱吉が天領(直轄支配)に改めている。

水運の発達から、商人たちは九州各地の物産を日田に集め、中津から船で上方に運び、戻り荷に綿などを積んで帰って販売することで富を貯えていった。
また幕府直轄ということで、代官所と各藩の取次役も受け持っており、特に有力な商人は「掛屋」に選ばれた。
掛屋は、代官所に入る年貢米や物産を販売し、その代金など幕府・各藩の公金を管理。必要に応じての送金を担当することが役目であった。

財政難にあえぐ九州諸藩は、富裕な掛屋に借財を申し入れ、掛屋たちもこれに応じた。
郡代の威光により、こうした貸付金には貸倒がなかったため、莫大な利益が生まれた。
こうした利益は「日田金」と呼ばれ、当時の繁栄を象徴している。

広瀬淡窓で知られる広瀬家も、豆田の商家(屋号:博多家)で、その生家は現在、広瀬資料館(廣瀬資料館)として保存されている。
ここでは、家業を継いで活躍した広瀬久兵衛(淡窓の弟)、そして広瀬淡窓の遺品や商家の日用品を拝観することができる。

広瀬淡窓については、「咸宜園」で書いたので、以下では広瀬久兵衛と、その他、広瀬家の人々について書く。

<広瀬久兵衛の生涯>
広瀬久兵衛は、淡窓の弟で、病気がちで儒者の道を歩んだ兄の代わりに若くして家業を継いだ人物だ。
1816年には、塩谷代官に抜擢され、小ヶ瀬井手、日田川通船工事の宰領を命じられ、その後、豊前海岸の干拓を行っている。
日田金を利用した諸藩(府内、津島、福岡)の財政再建にも活躍し、82歳の長寿を全うした。

<その他、広瀬家の人々>
広瀬淡窓、久兵衛に、月化、桃秋、秋子、旭荘、青邨、林外を加えた8人は「先哲八人(八賢)」と呼ばれている。

このうち、秋子は淡窓の妹。病気がちな兄を必死に看病し、仏に「兄の代わりに自分の命を差し上げるのでお救いください」と願ったという。
京都の仙洞御所にお仕えする風早の局(かざはやのつぼね)の侍女として出仕したが、流行り病で若くして亡くなっている。
淡窓は、「秋子は2歳下の妹で、しかも幼い頃は同じ部屋で育っていたので、他の兄弟とは違った親しさがあった」と回想している。

また淡窓の養子となり咸宜園を継いだ青邨は、明治維新の際、新政府に徹底抗戦の構えを取っていた西国筋郡代・窪田次郎右衛門を説得し、日田からの立ち退きを実現させている。

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1584年に武内山城守によって開山され、1637年に現在の地に建ったと伝わる寺。

幼少期の広瀬淡窓は、この寺の僧侶に学んでいたという。
「淡窓ものがたり」(日田市教育委員会)にはこんなエピソードが書いてある。

ある日、淡窓は若い僧侶に「蒙求」という本を習っていた。
その僧侶は「繰り返し何度も読めば、意味は自然と分かる」と言って、意味を教えてくれない。
それを見た四極先生という人物が「書は読むだけでは駄目で、意味も学ばなければならない」と言い、僧侶に意味も教えるように指示。

この考え方に影響を受け、淡窓は四極先生の弟子になり、四極先生は淡窓を文学の秀才・松下西洋に紹介したという。

豆田の風情ある街並みにある小さな寺で生家からも近い。
町を散策しつつ、江戸時代当時に思いを馳せて立ち寄ると良いだろう。

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日田祇園祭で知られる大分県日田市。
小京都と呼ばれる豆田町や日田温泉を抱え、豊かな水資源から「水郷」とも呼ばれる地だ。

往年の街並みが残る豆田町や温泉を抱えるこの地を代表する偉人が、広瀬淡窓である。
彼が幕末に開いた私塾・咸宜園は、日本中から塾生が集まる大規模なもので大村益次郎や高野長英も学んだ。
その咸宜園はじめ、日田には広瀬淡窓ゆかりの史跡が多数残っている。

<広瀬淡窓の生涯>
~咸宜園ができるまで~
広瀬淡窓は豊後日田、豆田の商家・博多家に生まれた。
幼少期は伯父夫婦に育てられ、やがて父の元に引き取られた淡窓は、松下西洋(松下筑陰)などに教育を受ける。

高山彦九郎が父・広瀬桃秋を訪ねて来た時、子供の淡窓が漢詩を1日100も作ったと聞いて驚き、日本中に神童として広めたという。

余談だが、13歳で元服した前後の頃、淡窓は羽倉簡堂に教えを施している。
後に儒学者として知られ、川路聖謨や頼三樹三郎を引き立てた簡堂は、当時、豊後で代官をしていた父と共に日田にいた。

さて、14歳になった淡窓は、4ヵ月ほど佐伯に滞在して学ぶ。数年前に松下西洋が出仕のため同地に移っていたので追ったのだ。
そして滞在が終わり、日田に戻った後、福岡に遊学。亀井昭陽の私塾・亀井塾に入門する。(入門のため、内山玄斐の養子となる)

しかし18歳の時に病気になり亀井塾を去り、日田に帰還。
一時は重篤であったが、熊本の医師・倉重湊が救い、数年間の療養生活に入る。

その後、24歳になって「成章舎」を開塾。当初は長福寺の学寮、続いて大阪屋の部屋を借りての出発であった。
「月旦評」と呼ばれる通信簿の貼り出しを行うなど、当時の日本では珍しい取り組みを行ったことが評判となり、入門者も増えたため2年後に、豆田うら町に新たな塾「桂林園」を建築。
ここでは、朝礼や外出などのルールを定めた塾則も設けられた。

この間も病気がちであった淡窓は、眼病を患う。
この影響で、本を読むにあたり、細かい注釈を読まず、太字の本文のみ読むようになったことが、注釈(周囲の意見)にまどわされない独自の考え方を生み出した。

~咸宜園建築から還暦まで~
29歳で結婚してから7年後には、桂林園も手狭になったため伯父(月化)が住む秋風庵のそばに「咸宜園」の建築を決定。
咸宜園は、多い月には230人もの門下生が集う日本一の塾になった。

ここでは、ブラッシュアップされ18段階となった「月旦評」の他、以下のような仕組みが取り入れられていた。
・三奪法(「年齢」、「学歴」、「身分」の撤廃)
 入門者は「年齢」「学歴」を問わず同じ級からスタート。
 そして「身分」を問わず同じ環境と評価軸で(月旦評の)評価を得る
・一人一役
 学問だけではなく日常生活も含め、全ての塾生にタスクを与え、共同生活・共同学習を実現させる
・倹約のすすめ
 塾生への親元からの送金は、2人の商人に預ける。
 そして勉学に必要な分以外、遊びで無駄遣いをしないよう管理。

勿論、勉学だけでなく息抜きもあった。
休みの日には淡窓・塾生が一緒に登山して詩を詠んだり、酒や食べ物を楽しんだり、日本各地から来た塾生たちの故郷の話を淡窓が聞いて楽しんだという。

こうしたシステムが咸宜園への信頼を高め、伝聞され、入門者は益々増加していった。

もっとも日田代官に着任した塩谷大四郎が、淡窓に家来となるよう命令したため、塾以外の雑務に手を取られたり、月旦評の内容を改めさせられたりと淡窓も苦労したようだ。
塩谷は、代官として優れた業績も残したが、こと咸宜園に関しては、私塾から自ら直轄できる官学に改めようとする厄介な存在であった。
日田代官、西国郡代と歴任し、20年近く九州にいた塩谷は、1835年に江戸に移っている。この時、淡窓は54歳になっていた。

この54歳の時、淡窓は「万善簿」をつけようと決心する。
これは、1日を反省し、善い行いを〇、悪い行いを●として記録し、〇-●が1万になるようにするものだ。(実際、淡窓は、67歳の正月29日に、1万善を達成した)

~晩年~
度重なる病気で長期休講した時期もあったものの、淡窓は還暦を迎える。
60代前半の頃には、大村藩(長崎県)、府内藩(大分県)に招かれて政事や学問を教え、長崎ではオランダ館や唐館にも訪れている。
その後、75歳で亡くなるまで、咸宜園で引き続き多くの人材を育成した。
死に際しては、自身の墓碑を自ら書いている。これは、門弟たちが自身を褒め過ぎるであろうことを嫌ったからと伝わっている。

<咸宜園>
現在、咸宜園は
・関連史料が展示されている「咸宜園教育研究センター」
・淡窓夫婦や門下生が寝起きした東塾跡
・塾主の講義や塾生の学習の場となった講堂跡
・伯父・月化の居宅であった秋風庵
などが残っている。

なお冒頭の写真は、順に「広瀬淡窓肖像画」、「月旦評」、「秋風庵」である。

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