咸宜園跡で書いた通り、当初は長福寺の学寮、続いて大阪屋の部屋を借りて私塾を運営していた広瀬淡窓であったが、評判が高まり入門者が増えたため、1807年、26歳の時に、豆田うら町に新たな塾「桂林園」を建築した。
後に咸宜園に移るまでの約10年、淡窓は、よりきめ細かい塾則の制定や、子弟への学問・生活両面での指導に力を注いでいった。
淡窓の有名な「休道の詩」も、この地で作られた。
休道他郷多苦辛
同袍有友自相親
柴扉暁出霜如雪
君汲川流我拾薪
異国で苦労が多いなどと言うのはやめよ。
仲間たちがいて、自然と助け合いが生まれる。
夜明けに柴の戸から出れば、霜は雪のように積もっている。
君は川で水を汲んできてくれ。私は薪を拾おう。
この詩、実は亡くなる直後に一部書き換えられている。
それが「休道」、「柴扉暁出」の2カ所だ。
「休道」は「莫道」から改められ、「柴扉暁出」は「柴扉暁闢」から改められた。
塾生たちを励ます詩だけに、淡窓自身の一語一句への拘りも大きかったのだろう。
仲間たちがいて、自然と助け合いが生まれる。
夜明けに柴の戸から出れば、霜は雪のように積もっている。
君は川で水を汲んできてくれ。私は薪を拾おう。
この詩、実は亡くなる直後に一部書き換えられている。
それが「休道」、「柴扉暁出」の2カ所だ。
「休道」は「莫道」から改められ、「柴扉暁出」は「柴扉暁闢」から改められた。
塾生たちを励ます詩だけに、淡窓自身の一語一句への拘りも大きかったのだろう。