「成富茂安誕生の碑」から引き続き、成富茂安の生涯を振り返りたいと思う。
<成富茂安の生涯 -後編->
沖田畷で龍造寺隆信が敗死する2年前、中央では織田信長が本能寺で倒れ、羽柴秀吉が明智光秀を討った。
この頃、鍋島直茂は秀吉に南蛮帽子を献上するなど接近を図っていたようだ。
茂安の父・信種は、隠居・上洛していたので、茂安(経由で直茂)に中央の情勢を連絡していたのかもしれない。
その後、秀吉は勢力を拡大し、九州を征伐。
かくして茂安は、直茂の侍大将として、秀吉の軍役をこなしていくことになる。
武勇の他、築城や検地など民政で必要な多くのタスクに関わったのだ。
その後、関ケ原の戦いでは、鍋島勝茂に従い、伏見城攻めで先陣を務めるなど西軍として参戦するが、東軍が勝利。結果的に龍造寺家は肥前佐賀の本領を安堵された。
徳川の天下になると、茂安は名古屋城、大阪城、江戸城など数多くの普請に参加。
勝茂公譜考補や成富家譜によると、大阪では、巨木や石材運搬で工夫を見せたようだ。
こうした数多くの土木事業には、他大名も数多く参加していた。
例えば、加藤清正のやり方を身近で見たであろうことは、識見を磨く財産になったのではないだろうか。
大坂の陣が終わると、茂安は勝茂に「領地拡充はもう望めないので、領内開発を最優先すべし」と進言している。
すなわち富国のため、新田開発とそのための水確保である。
具体的には、洪水や用水への対策。水を巡る村々の紛争防止、河川がない地域への溜池の準備など。
城下町と、その周辺に穀倉地帯を設け、生活基盤となる水を適切に供給可能とすることは、重要な課題であった。
加えて佐賀藩は肥前1国である。龍造寺隆信時代の大勢力ではない。これで膨大な家臣団を養わなければならない。
また秀吉時代の朝鮮出兵、江戸城や大阪城の手伝い普請などで財政は極めて困窮していた。
水の確保は、財政の確保、つまり佐賀藩存続に直結する一大事だったのだ。
そんな背景から水利事業をする上で、佐賀平野は非常に難易度の高いエリアといえた。
一言でいうと「水がない時はとことん無い。ある時は洪水になってしまう」のである。
まず北に連なる山々は保水力に乏しく、川の集水は不十分。いざ平野に流れると流域以外にはみ出してしまう。
その上、南の有明海は年々隆起し南に後退するので、沖積平野は沖へ伸びる。
従って、平野に水が足りない。
自然の水路に人工水路を組み合わせ、周囲の川から平野全体に行き渡さなければならない。
つまり導水し、水を溜めるため、クリークを拓いていかなければならなかった。
一方で排水も厄介であった。いざ大雨になると、
・山からの洪水の平野流入回避(特に嘉瀬川はじめ水位が高く天井川となっている中小河川対策)
・東の低地を流れる筑後川への対策
・有明海の高潮対策
こうした検討が必要であった。
このようなエリアにも関わらず、茂安は水利事業をやり切った。
治水の知見だけでなく、前編冒頭で述べたような人心掌握術、カリスマ性など多くの要素が彼に備わっていたからだろう。
では、茂安が行った水利事業とは具体的にどのようなものなのだろうか。
次回、「さが水ものがたり館」とともに紹介したいと思う。
<成富茂安の墓 本行寺>
さて成富成安が眠る本行寺は、西田代バス停下車後、2分ほどにある。
龍造寺胤家が創建した歴史ある日蓮宗寺院だ。
寺に入り、本堂向かって左側手前に江藤新平の墓がある(江藤新平視点での紹介はまた別の頁で)
そして左奥の墓地エリアの中に、成富茂安の墓がある(看板もあるので容易に見つかる)
中央が茂安の墓で、墓碑には「寛永十一年(1634年)甲戌九月十八日」とあり「玉心院殿栄久日実」の法名がある。
放蕩息子から龍造寺・鍋島の勇将へ。そして治水の神様として佐賀の基礎を築いた茂安の功績を思いながら、手を合わせて頂きたい。
なお茂安の墓は、晩年に隠棲した佐賀郡大和町にもあるようなので折を見て探訪したいと思う。
参考資料:
佐賀平野の水と土-成富兵庫の水利事業-(江口辰五郎 新評社)
嘉瀬川と成富兵庫(佐賀県治山治水協会)
嘉瀬川と成富兵庫(佐賀県治山治水協会)
【基本データ】
営業時間:要確認
入場料:無料
アクセス方法:
車:佐賀大和I.Cから約30分
バス:佐賀駅バスセンターから辻の堂方面、西田代バス停下車
営業時間:要確認
入場料:無料
アクセス方法:
車:佐賀大和I.Cから約30分
バス:佐賀駅バスセンターから辻の堂方面、西田代バス停下車