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山鹿市博物館のすぐ側に見事な眼鏡橋がある。
幕末の頃、中村地区の干害対策に用水を引いた際、吉田川右岸に架けられ100年もの間活用されてきた石橋だ。
歩いて渡る橋ではなく寺島井出(水の流れをせき止めてためる所)の用水を吉田川を越えて対岸にわたすための通水橋であった。(※1)
そして後年、復元移築されて現在に至る。

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この美しい橋を苦心して造り上げたのが福田春蔵だ。
同氏の生涯を調べたところ、橋以外にも山鹿に大きな貢献をした名士だと分かったので、以下、紹介したい。

<福田春蔵の生涯>
福田春蔵は文化3年(1806年)、玉名郡の肥猪に生まれた。
若くして京都に出たが、祖父の病気で帰省。
20代半ばで玉名の庄屋となり、窮民救済や結婚資金の貸付制度を作って慕われた後、1861年から庄屋制度がなくなる明治3年まで10年間、山鹿手永の庄屋と代官を務めた。

冒頭の眼鏡橋を含む用水工事では、井手の開削に成功。水田150町歩を守っている。
これは山鹿の町から温泉の下をくぐり中村に伸びる坑道を含む難工事であったと伝わっている。

業績はこれに留まらない。
飢饉の折は富裕層から寄付を募り、窮民を救ったり、未亡人や孤児には補助金を与えるなど、弱者を思いやる治世を展開。
また、はき捨てた草履や馬糞など、肥料になるものが道に落ちていると必ず拾って、田んぼに投げ入れるなど、偉ぶらず地道な作業も厭わない。そんな人物であった。

他にも、700人余りが学ぶ塾舎の創設、村役人の月次教育、明治2年には、熊本藩の藩校・時習館から教職を迎え入れるなど、教育にも力を注いでいる。
学制発布に先立ち、熊本県下のどこよりも早く山鹿郡に小学校が開校されたのも、彼の誘導があったことは想像に難くない。

庄屋制度の廃止後は、故郷に戻り、翼々舎(肥猪義塾)を主催。明治9年(1876年)に亡くなるまで、多くの人に尊敬され、門弟を輩出した。

彼のような偉人を知るのもまた、郷土史の魅力と言えるだろう。
山鹿を訪れた際は、是非、博物館とあわせて大坪橋と福田春蔵の功績を思い出して頂きたい。

参考資料:
広報やまが(1960.3.15)
城北史談会編『石人』122号

※本記事の作成にあたり、山鹿市社会教育課のご担当者様に資料提供でお世話になりました!
心からお礼申し上げます。

※1. 大坪橋は水道橋であるとともに、水が流れる上にふたをして渡れるようにしていた(歩道+水道だった)そうです。(山鹿市社会教育課ご担当者様・談)

【基本データ】
営業時間:終日
入場料:無料



アクセス方法:
鹿児島本線「玉名駅」もしくはJR「熊本駅」からバス「山鹿バスセンター」~「博物館前」下車後すぐ。