好いーと九州

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2019年12月

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西南戦争では、高瀬や田原坂での戦いが有名だ。
しかし、山鹿一帯でも24日間の激戦が繰り広げられた。

明治10年(1877年)2月23日。
官軍は、高瀬方面に向かう本隊(乃木希典隊)とは別に、津下少佐率いる300名が山鹿に到着するが、「薩軍が北上中」との報を得て、翌日、北の正円寺に退いた。

一方の薩軍は、2月24日(25日説も)、桐野利秋率いる2600名が共同隊と共に山鹿に到着。
共同隊は、自由民権家の宮崎八郎(宮崎滔天の兄)が、同志と共に組織した隊で、薩軍に味方していた。

対峙した両軍は、2月26日、山鹿西の鍋田で激突する(第一次山鹿戦闘)
この初戦は、薩軍有利に進み、政府軍は玉名郡まで退却した。

続く3月3日、政府軍を追撃する薩軍と、阻止する政府軍が再び激突(第二次山鹿戦闘)
この戦いも、薩軍有利に進んだが、共同隊長の平山惟一が戦死している。

翌4日には、薩軍に「田原坂大敗」の報が入り、驚いた桐野は全軍山鹿から退くよう命じた。ところが、後に誤報と判明し、再び、車坂へと進出。車坂-岩村ラインにおいて三度目の激戦が展開された。(第三次山鹿戦闘)

3月10日には、三浦梧楼の隊が官軍に合流。
4000人になった官軍は、12日早朝、薩軍に一斉攻撃を仕掛けた。
鍋田の東西に、谷を挟んで対峙した両軍は、一日中激しく戦ったが、精鋭同士で互いに譲らない。(第四次山鹿戦闘)

3月15日にも第五次山鹿戦闘が行われたが勝負はつかなかった。
その後、20日に田原坂が陥落したことで、薩軍は植木方面と隈府方面に退いていったのである。

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山鹿市立博物館がある鍋田は、まさしく激戦の舞台となった場所で、付近には西南戦争戦没者を悼む碑が建っている。

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宮崎の偉人・小倉処平(彼については宮崎の史跡にて改めて紹介する)も参加していた飫肥隊戦没者を悼む歌碑や杉もある。
オブサン古墳の展示で見られる銃弾跡などと合わせ、激戦を思い、合掌したい。

参考資料:
西南戦争 戦争の大義と動員される民衆(猪飼隆明 吉川弘文館)
「西南の役 山鹿口の戦い」説明板(山鹿郷土史研究会)

【基本データ】
営業時間:終日
入場料:無料



アクセス方法:
鹿児島本線「玉名駅」もしくはJR「熊本駅」からバス「山鹿バスセンター」~「博物館前」下車後すぐ。

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チブサン古墳から遊歩道を歩くと、オブサン古墳がある。
古墳時代後期の築造と推定され、入り口周囲に突き出した部分を持つ円墳で、石室にはチブサン同様、2つの部屋がある。
残念ながらこちらも盗掘に遭い、石室奥の石屋形は跡形もないが、個性的な外観は一見の価値がある。
また装身具、武具類などが内外より出土しており、解説と共に展示されている。

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装飾古墳には「線刻や浮き彫りによるもの」と「絵画によるもの」があるが、山鹿地方はこの両方が存在する。
チブサン古墳やオブサン古墳は絵画の代表例で、玄室左の仕切り石には朱色の三角文が描かれている。

オブサン古墳の特徴といえば、古墳時代のみならず後世でも歴史の舞台になっていることだろう。
平安末期には、地場荘園の有力者が墓所に選び、江戸時代には安産の神様として信仰された("オブサン"の名も"産さん(うぶさん)"が由来のようだ)
さらに明治に入り、西南戦争が起こると、この地が政府軍の陣地に利用され、石室内の閉塞石など多量の石材が運ばれ、防御壁が造られた。

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最左に展示されているのが閉塞石。右下などに見られる穴は、西南戦争での銃弾跡。

現在の姿は、昭和に入り、築造当時の姿に復元されたものだ。
古墳研究家のまりこふん女史をして「一番好きな古墳」と言わしめたというオブサン古墳。
近くには古墳の森、さらには西南戦争関連の碑もあるので、歴史ファンは、チブサン古墳と合わせ、訪問をお勧めしたい。

参考資料:
肥後古代の森 山鹿地区散策マップ(山鹿市立博物館)
閉塞石説明板
山鹿市立博物館 学芸員様の解説

【基本データ】
営業時間:終日
入場料:無料



アクセス方法:
鹿児島本線「玉名駅」もしくはJR「熊本駅」からバス「山鹿バスセンター」~「博物館前」下車後、徒歩約15分。

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