西南戦争では、高瀬や田原坂での戦いが有名だ。
しかし、山鹿一帯でも24日間の激戦が繰り広げられた。
明治10年(1877年)2月23日。
官軍は、高瀬方面に向かう本隊(乃木希典隊)とは別に、津下少佐率いる300名が山鹿に到着するが、「薩軍が北上中」との報を得て、翌日、北の正円寺に退いた。
一方の薩軍は、2月24日(25日説も)、桐野利秋率いる2600名が共同隊と共に山鹿に到着。
共同隊は、自由民権家の宮崎八郎(宮崎滔天の兄)が、同志と共に組織した隊で、薩軍に味方していた。
対峙した両軍は、2月26日、山鹿西の鍋田で激突する(第一次山鹿戦闘)
この初戦は、薩軍有利に進み、政府軍は玉名郡まで退却した。
続く3月3日、政府軍を追撃する薩軍と、阻止する政府軍が再び激突(第二次山鹿戦闘)
この戦いも、薩軍有利に進んだが、共同隊長の平山惟一が戦死している。
この戦いも、薩軍有利に進んだが、共同隊長の平山惟一が戦死している。
翌4日には、薩軍に「田原坂大敗」の報が入り、驚いた桐野は全軍山鹿から退くよう命じた。ところが、後に誤報と判明し、再び、車坂へと進出。車坂-岩村ラインにおいて三度目の激戦が展開された。(第三次山鹿戦闘)
3月10日には、三浦梧楼の隊が官軍に合流。
4000人になった官軍は、12日早朝、薩軍に一斉攻撃を仕掛けた。
鍋田の東西に、谷を挟んで対峙した両軍は、一日中激しく戦ったが、精鋭同士で互いに譲らない。(第四次山鹿戦闘)
3月15日にも第五次山鹿戦闘が行われたが勝負はつかなかった。
その後、20日に田原坂が陥落したことで、薩軍は植木方面と隈府方面に退いていったのである。
山鹿市立博物館がある鍋田は、まさしく激戦の舞台となった場所で、付近には西南戦争戦没者を悼む碑が建っている。
宮崎の偉人・小倉処平(彼については宮崎の史跡にて改めて紹介する)も参加していた飫肥隊戦没者を悼む歌碑や杉もある。
オブサン古墳の展示で見られる銃弾跡などと合わせ、激戦を思い、合掌したい。
参考資料:
西南戦争 戦争の大義と動員される民衆(猪飼隆明 吉川弘文館)
「西南の役 山鹿口の戦い」説明板(山鹿郷土史研究会)
【基本データ】
営業時間:終日
入場料:無料
アクセス方法:
鹿児島本線「玉名駅」もしくはJR「熊本駅」からバス「山鹿バスセンター」~「博物館前」下車後すぐ。
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