2015年に世界文化遺産に登録された尚古集成館。
幕末の名君・島津斉彬が抱いた「日本を強く、豊かにして諸外国に対抗しよう」という意志を今に伝える地だ。
隣接する島津家別邸「仙巌園」と共に、鹿児島が誇る名所だが、本ページでは、そんな集成館の歴史と、現在の尚古集成館を紹介したいと思う。
<アヘン戦争の衝撃>
18世紀後半、イギリスから始まった産業革命の結果、西洋諸国は市場拡大と原料輸入を目的にアジア進出を活発化させた。
この一環として、イギリスは中国に綿や毛織物を輸出し、絹や茶を輸入したが、輸出が伸びなかった。
赤字解消を狙ったイギリスがアヘンを中国に密輸した結果、中国ではアヘン中毒者が急増。
中国政府は、密輸の取り締まりに乗り出し、最終的には、アヘン在庫を一斉処分。イギリス商人の一般貿易も禁止するという強硬手段に出た。
これがアヘン戦争へと発展し、中国は敗北。
香港割譲などを認めた南京条約締結を余儀なくされる。
香港割譲などを認めた南京条約締結を余儀なくされる。
江戸幕府はアヘン戦争に関する情報を隠していたが、島津斉彬は独自に入手し「清国阿片戦争始末ニ関する聞書」として写している。
薩摩藩は琉球を領土的に支配していたため、阿片戦争は他人事ではなかったのだ。
<島津と琉球>
島津氏と琉球の歴史は古い。戦国時代、豊臣秀吉に敗北した島津氏は領土拡大を断念する代り、琉球支配に力点を移した。
江戸時代には、幕府から得た許可以上の規模で琉球と貿易を行っていたようで、当時の難破船の記録から1年に2艘分もの昆布を調達していたとの推測もある。
琉球貿易の利益は薩摩藩にとって生命線だったので、西洋の進出は一大事であった。
実際、1844年頃からは、毎年のようにフランスやイギリスが琉球に来航し、通商を要求しており、アメリカのペリーも浦賀来航前から合計5回、琉球に上陸。幕府の対応次第で、琉球を力づくで奪うことを表明していた。
斉彬は、開国要求の背後に潜む植民地化の脅威を肌で感じていたのだ。<集成館事業>
斉彬はこうした脅威に対し「今のままでは外国には勝てない。軍事を中心に様々な産業を興し、外国と対等に貿易して自立した国家として立ち行くようにしよう」と考えた。
1851年、彼は藩主になるとすぐに大砲を造るための反射炉の実験と、洋式船の建造に着手。
そしてガラス工場、蒸気金物細工所など次々と工場を建造する。
こうした一連の工場は「集成館」と名付けられ、鶴丸城内に築かれた研究開発施設「開物館」で開発された製品を生産していった。
「洋書の翻訳などを行い、開物館で研究開発し、集成館で生産する」サイクルで薩摩藩の近代化が行われたのである。
集成館でも中核となっていたのが大砲製造事業だ。
当時日本に伝わった大砲造りの手順はざっくりと3つの工程から成る。
1. 溶鉱炉で鉄鉱石を溶かし、銑鉄を造る。
2. 反射炉でその銑鉄を再度溶かし、大砲の砲身を造る。
3. 砲身に穴をあける。
このうち他藩では、工程1は不要(従来の和鉄で大丈夫)と考え省略していたが、そのまま反射炉で利用するには日本の鉄は質が不十分であった。
元々水車の動力で、高炉による製鉄を行っていたこともあってか薩摩藩は、このことに当初から気付いており、溶鉱炉を建造している(残念ながら、斉彬が生きている間は実用に至らなかった模様)
次に工程2は、国内では薩摩に先んじて佐賀藩が反射炉の製造に成功しており、その佐賀藩から譲り受けた翻訳書「西洋鉄鋼鋳造篇」を読み解くところからスタートした。
しかし相当苦戦したようで、当初は反射炉のサイズが小さかったことなどから大失敗。
だが斉彬は、佐賀の事例も踏まえ「何度も失敗するのは当然」とした上で、「西洋人も人なり、佐賀人も人なり、薩摩人も人なり」(西洋人だって、佐賀人だって、薩摩人だって同じ人間なのだから、研究に励んで実現させようぜ!)と鼓舞した。彼がいかにこの事業を重要と考えていたかが分かる。
現存する反射炉の遺構では、高温に耐えられるレンガを造るため、天草の土が取り寄せられ、薩摩焼の陶工たちが造ったことが確認されており、まさに藩一丸だったのだ。
<集成館の挫折と再建>
ただ、藩一丸とは書いたものの斉彬の事業の重要性を正しく認識していたのは中下級の官僚たちであり、重臣層は理解しているとは言い難かった。
斉彬が50歳で急死すると、実権を握った島津斉興は、試行錯誤中で黒字化前であった大半の事業を廃止・縮小する。
斉興の死後、実権を握った(斉彬の異母弟)島津久光は、斉彬の事業承継を打ち出し、集成館を再興する活躍を見せたが、いかんせん洋学には疎く、軍備を旧来然とした形に改めている。
そうした西洋音痴が吹き飛ぶような事態が発生する。薩英戦争だ。
島津久光の行列が、イギリス人商人を殺傷したことに端を発するこの戦争で、イギリスはアームストロング砲で攻撃。
これには、久光以下、重臣層も驚き、そうした先端技術を取り入れようとした斉彬の意図にようやく気付いたのだった。
なお、薩英戦争では斉彬時代の砲台・大砲が活躍し、イギリスにも大きな損害を与えている。
薩英戦争後の交渉がスムーズにいった背景に、こうした斉彬の遺業があることは見逃せない事実だ。
薩英戦争後、焼失した集成館には仮設工場が建てられ、大砲の鋳造が行われた。
そして機械工場が造られ、蒸気機関や洋式の工作機械を導入。さらに木工工場や製薬所、アルコールの製造場などが次々と建てられ、再建されていった。
<明治時代以降>
こうして集成館は薩摩藩の産業革新に多大な貢献をした後、明治時代に入ると政府所管となり、最終的には海軍省の管理下で、鹿児島造船所となった。
明治初期においても国内最大規模の工場群であったのだが、やがて西郷隆盛が政府と対立し、鹿児島に帰ると、強大な集成館は、政府にとって悩ましい存在となっていった。
そこで政府は鹿児島の武器・弾薬を密かに搬出しようとしたが、西郷が開いた私学校の生徒たちが察知し、陸軍や鹿児島造船所(集成館)の火薬庫を襲撃。武器弾薬を奪い去った。
これがきっかけとなり西南戦争が勃発。
薩軍は、鹿児島造船所に「集成館」の看板を掲げ、武器弾薬の製造を始めたが、政府も対抗して、軍艦を派遣。集成館の主要な機械を積み込ませ、残りの機械を使用できないようにした。
製造拠点を失ったことは薩軍にとって武器補給面で大打撃となった。
その後、集成館は薩軍と政府軍の戦場となり、甚大な被害を受けてしまう。
戦後、大半の工場が機能停止となった集成館は民間に払い下げられ、再び島津家が所有した後、貸工場として製糖機械などを生産した。
一時期は100名余が働いていたようだが、大正に入って間もない1915年、ついに廃止となった。
そして、島津家の歴史資料を展示する博物館・尚古集成館として生まれ変わったのである。
薩英戦争後、焼失した集成館には仮設工場が建てられ、大砲の鋳造が行われた。
そして機械工場が造られ、蒸気機関や洋式の工作機械を導入。さらに木工工場や製薬所、アルコールの製造場などが次々と建てられ、再建されていった。
<明治時代以降>
こうして集成館は薩摩藩の産業革新に多大な貢献をした後、明治時代に入ると政府所管となり、最終的には海軍省の管理下で、鹿児島造船所となった。
明治初期においても国内最大規模の工場群であったのだが、やがて西郷隆盛が政府と対立し、鹿児島に帰ると、強大な集成館は、政府にとって悩ましい存在となっていった。
そこで政府は鹿児島の武器・弾薬を密かに搬出しようとしたが、西郷が開いた私学校の生徒たちが察知し、陸軍や鹿児島造船所(集成館)の火薬庫を襲撃。武器弾薬を奪い去った。
これがきっかけとなり西南戦争が勃発。
薩軍は、鹿児島造船所に「集成館」の看板を掲げ、武器弾薬の製造を始めたが、政府も対抗して、軍艦を派遣。集成館の主要な機械を積み込ませ、残りの機械を使用できないようにした。
製造拠点を失ったことは薩軍にとって武器補給面で大打撃となった。
その後、集成館は薩軍と政府軍の戦場となり、甚大な被害を受けてしまう。
戦後、大半の工場が機能停止となった集成館は民間に払い下げられ、再び島津家が所有した後、貸工場として製糖機械などを生産した。
一時期は100名余が働いていたようだが、大正に入って間もない1915年、ついに廃止となった。
そして、島津家の歴史資料を展示する博物館・尚古集成館として生まれ変わったのである。
<集成館の様々な事業1. 造船事業>
上記した大砲製造以外にも、集成館では様々な事業が展開された。
例えば。大砲と同じぐらい、斉彬が力を入れたのが造船事業であった。
上記した大砲製造以外にも、集成館では様々な事業が展開された。
例えば。大砲と同じぐらい、斉彬が力を入れたのが造船事業であった。
「海から押し寄せる西洋列強。さらに世界と交易するためには船が必須である」
そう思い、パイロット版となる試作船を建造した後、老中・阿部正弘に大型船の建造を相談した。
幕府は大船建造禁止令を出していたため、2人は「進貢船を頑丈にした琉球船を造りたい」と進上し、許可を得る。
また後に、ペリーが黒船を引き連れて浦賀に来航したことを受け、さすがの幕府も大船建造を解禁した。
また後に、ペリーが黒船を引き連れて浦賀に来航したことを受け、さすがの幕府も大船建造を解禁した。
こうして造船にも力を入れた薩摩は、洋式軍艦・昌平丸を建造し、幕府に献上している。
当時の証言などを踏まえると、「ぜい弱だが、初めてにしてはクオリティの高い船」だったようだ。
ただ時勢が目まぐるしく変わる中、最終目標であった蒸気船は、「建造するよりも購入する方が早い」との判断に到った。そして交渉も進んでいたが、斉彬の死去により、とん挫している。
なお斉彬は、日本の船が異国船と区別できるように、日本の総船印として「日の丸」採用を提言。
1854年に幕府も承認し、1860年には国旗となっている。
<集成館の様々な事業2. 薩摩切子>
美しいガラス製品「薩摩切子」も集成館事業の一環として生まれたものだ。
斉彬は、藩内外の蘭学者に、強力な酸に耐え得るガラスの研究を命じ、その成果を実地に移していった。
藩一丸でのガラス産業への注力が美しい薩摩切子を生み出したのだが、西南戦争で設備が焼失。
集成館での生産は廃絶となった。
<集成館の様々な事業3. その他の事業>
この他、ミニエー銃の生産、電信機の利用から、農業改革、出版、ガス灯、鹿児島紡績所での紡績業など、集成館事業は幅広い領域を対象としていた。
斉彬は、藩内外の蘭学者に、強力な酸に耐え得るガラスの研究を命じ、その成果を実地に移していった。
藩一丸でのガラス産業への注力が美しい薩摩切子を生み出したのだが、西南戦争で設備が焼失。
集成館での生産は廃絶となった。
<集成館の様々な事業3. その他の事業>
この他、ミニエー銃の生産、電信機の利用から、農業改革、出版、ガス灯、鹿児島紡績所での紡績業など、集成館事業は幅広い領域を対象としていた。
こうした事業が短期間に進められたことは脅威的であり、「実際に利益が出るまで10年はかかるだろう」と長期スパンで捉えていた島津斉彬が生きていたら……と思わずにはいられない。
しかし彼の遺志は、大久保利通や西郷隆盛はじめ、薩摩藩士たちによって引き継がれていったのである。
<現在の尚古集成館>
島津関連の史料が多数保管されている尚古集成館には、本館と別館がある。
本館では、「島津氏ゆかりの所蔵品」と「集成館事業の遺産」の展示が。
そして別館ではおよそ2か月ごとに「島津ゆかりの企画展示」が行われている。
尚古集成館・本館
「島津氏ゆかりの所蔵品」
島津義弘の像や、彼が自ら竹を削って作った茶杓、島津家久が常久に、示現流を見るように勧めた書状など戦国ファンなら見逃せない史料も多数。
戦国以降を中心に、島津の歴史が簡単に分かるようになっている。
「集成館事業の遺産」
島津斉彬の書や幕府への建白書、日時計や美しい薩摩切子、水車など。
他にも、事業ゆかりの製品、機器類も多数展示されており、薩英戦争での薩摩・イギリスの砲弾比較は、当時の技術差を知る上でも興味深い展示だ。
こうした史料から、斉彬が何を感じていたか垣間見ることができる。
また、工作機械を自前で作り、蒸気機器の操作も難なくこなしていた薩摩の人々には畏敬の念を禁じ得ない。
奥のシアターでは、集成館事業の紹介映像も上映されている。
別館
「戦国大名島津氏」、「薩摩とイギリス -海が結んだ絆-」など興味深いテーマが並ぶ企画展。
小ぶりな1ルーム・スペースなので、サクッと観ることができる。
ただ侮ることなかれ。
「戦国大名島津氏」展では、なんと島津豊久が関ケ原で戦死した時に着用していたと伝わる鎧(本物!)が展示されており、もうこれは戦国ファンなら悶絶ものである。
他にも、義久直筆の書をはじめ、戦国・島津ファンなら間違いなく心拍数が一気に上がる展示が多数あり、しかもその殆どが本物なのである。
島津関連の史料が集まっている尚古集成館の凄さを感じた瞬間であった。
【基本データ】
営業時間: 8:30~17:30(無休)
入場料:大人1000円、小・中学生500円(名勝仙巌園と共通)
アクセス方法:営業時間: 8:30~17:30(無休)
入場料:大人1000円、小・中学生500円(名勝仙巌園と共通)
カゴシマシティビュー「仙巌園前」で下車