好いーと九州

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2019年02月

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高知に向かった頭山は板垣退助との面会に成功。
しかし、板垣は気負う頭山に、武力ではなく言論での戦いを主張する。

演説会にも参加し、自由民権運動の熱を肌で感じた頭山は、同運動きっての論客・植木枝盛とも気脈を通じる。
また1878年には大阪で行われた「愛国社」再興大会にも参加。
そこで各地に民権結社設立を急ぐことが決まったのを受け、玄洋社の前身・向陽社を結成したのだった。

頭山は、教育機関である向陽義塾も併設したこの結社で、植木枝盛の招聘を計画。
2ヵ月と短期間ではあったが、植木は来福し、代表作「民権自由論」を完成させている。

さて、1879年暮れに向陽社は玄洋社と改名する。
「玄界の怒濤天を打つの勢いに則って玄洋社と命じた」ようだ。

同時期、国会開設と不平等条約改正の建白を目的とした「筑前共愛公衆会」(後の共愛会)が組織され、ここでも玄洋社の面々は主導的な立場を担った。
こうした中で、頭山は民権運動の同士たちとコネクションを築くべく1880年に、東京、東北を行脚している。

……が、1881年。明治14年の政変が起き、政府が自ら憲法作成に取り掛かる。
政府側から国会開設の先手を打たれたことで、共愛会は活動を停止。
玄洋社は、熊本で民権運動の中心となっていた相愛社が呼びかけた九州改進党への加盟も拒否する。

彼らは資金窮乏もあり、下手に動くのではなく、野村望東尼で知られる平尾で山林の開墾や養蚕事業にチャレンジする。そうして来る日に備え力を蓄えたのだった。

それから数年。

1882年、朝鮮半島では「壬午の軍乱」が起こり、親日政権および日本への反乱が起きた。
国内でも、福島県で道路建設のため労役を課され苦しんだ民衆が、自由党員中心に県令に反抗した。
前者は、清の朝鮮支配強化という結果に終わり、後者は警官隊に逮捕された自由党員が壊滅した。

日本国としての国権強化を重視すべきか。あるいはこれまでの通り、自由民権の強化を重視すべきか。

世間での動きを踏まえ、玄洋社内でも、その行く末について国権重視派が民権重視派が対立。
国権重視の中心は頭山。
そして民権重視の中心は、向陽社社長、玄洋社4代社長を務めた箱田六輔であった。

その箱田は国会開設の前年(1888年)に自宅で突如割腹自殺を遂げる。
傍らには頭山がいたという。
箱田の死は、玄洋社の未来について2人が考え抜いた末の悲劇であったのかもしれない。

話は前後するが1887年には、頭山が社長を務める「福陵新報」(九州日報の前身)が創刊され、不平等条約改正反対の運動などで盛り上がった。
当時、政府は井上馨を中心に、条約改正案を作成していたが、その内容は国内全域で外国人居住や商活動を認めた上に、外国人関連の裁判には過半数の外国人判事を加えた裁判所で行うというもの。
政府の法律顧問・ボアソナードをして「旧条約に比べて不利益を全国に流す」と警告させる程であった。
これには世間も反発。自由民権派の勢いも増すが、突如、政府は保安条例を発布。政治結社結成や集会を禁止する。

民権運動が挫折し、条約改正問題も振り出しへ。そんな状況の中、井上の後任として大隈重信が外相に就任する。
彼は出だしこそ、メキシコと対等な通商航海条約を結んだものの、アメリカ、イギリスなど列強との交渉にあたり「大審院の判事に外国人を任用する」との改正案を作成。
これが、井上と大差ないとして、世論から反発を受ける。

ここに至り、頭山は玄洋社を代表し上京。
改正案への反対派団体などと演説会を開き、伊藤博文や松方正義などの閣僚を訪問し、論陣を張った。
遂には伊藤博文も反対派になったが、首相・黒田清隆は改正断断行を支持。
この結果を受けて頭山はこう言った。

「格別の意見は持たない。しかし、自分は政府に断じて屈辱的条約を締結させないことに決めた」

そして玄洋社員・来島恒喜による爆弾事件が決行される。
馬車で移動する大隈重信に爆弾を投げつけ、同時に短刀で自決したのだ。
大隈は右足切断の重傷を負い、結果的に大隈の条約改正案も破棄されることになった。

この襲撃が来島による独断であったか、誰かの意を汲むものであったかは定かではない。
ただ少なくとも来島は養子先の的野姓から旧姓に戻し、玄洋社に脱退届を出すなど、周囲に死後、迷惑を及ぼさないよう細心の注意を払っていたことが分かっている。

これは現代の視点から見ればテロであり、許されざる行為である。
その一方で、勝海舟が来島の意を後世に残すべく谷中霊園にも墓が建てたり、当の大隈自身が「いやしくも外務大臣である我が輩に爆裂弾を食わせて世論を覆そうとした勇気は、蛮勇であろうと何であろうと感心する」と語り、谷中へ墓参りもしたという。

当時の巨人たちにしか分かり得ない、立場は違えども「国のため」という精神への共鳴が垣間見える一コマと言えるのではないだろうか。

さて、玄洋社は福岡市中央区舞鶴にあった。
その跡地には、かつて「玄洋社記念館」があったが2008年5月末に閉館。
現在は、記念碑を残すのみとなっている。

【基本データ】
営業時間:終日
入場料:無料




アクセス方法:
地下鉄空港線 赤坂駅より歩いて7分

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明治~昭和期にかけて政財界に大きな影響を与えた政治結社が玄洋社だ。
中国革命の父・孫文を支援し、実業家としても名を馳せた初代社長・平岡浩太郎。
内閣総理大臣・廣田弘毅。
オッペケペー節の川上音二郎。
長く福岡市長を務めた、最後の玄洋社社長・進藤一馬。

そして総帥・頭山満。

多彩な人材を輩出した玄洋社の成立をゆかりのある史跡と共に追ってみたい。

<玄洋社の総帥・頭山満>
玄洋社の中心人物・頭山満は1855年、福岡西新で誕生した。
ペリーが来航した2年後、まさに幕末動乱の最中に生まれたわけだ。

青年になった頃には、西南戦争をはじめ、神風連の乱や秋月の乱など、不平士族による反乱が相次いで発生。
長州では、元参議・前原一誠たちが萩の乱を起こすが失敗。これに連座したとして、頭山は福岡で捕らえられ、獄舎に繋がれている。

当時、福岡でも同時期に「福岡の変」が起こるが失敗し、若い命が多く散った。
その多くは、かつて乙丑の獄(藩論が勤王から佐幕に変わり、多くの勤王派が殺された)で処刑された筑前勤王党の遺児たち。
皮肉にも捕らわれの身であったため生きながらえた頭山や仲間たちだったが、西郷隆盛に呼応して維新をやり直そうとした同世代たちの死は悔しいものだった。

ところがその翌年、大久保利通が暗殺される。
政府を象徴する大物政治家の死を聞いた頭山は「いよいよ自由民権運動の主格・板垣退助が決起するに違いない」と考え、意気揚々と高知に向かうが……どうなったかは別の史跡と共に書きたいと思う。

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今回紹介するのは、西新緑地。地下鉄空港線・西新駅を出てすぐにある。
ここに頭山満が植えた楠がある。
石碑には、当時11歳であった頭山が「楠木正成のような人物になりたい」と願い、生家の庭に苗木を植えたとある。

近隣には活気ある西新商店街。修猷館高等学校や西南学院大学を抜けるとサザエさん発祥の地、福岡市博物館、福岡タワー、さらには百道浜へと続いていく西新散策と共に、歴史好きは訪れたいスポットだ。

【基本データ】
営業時間:終日
入場料:無料



アクセス方法:
地下鉄空港線 西新駅7番出口出てすぐ

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(高瀬の俵ころがし)

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(船着き場跡)

高瀬地区は、港町として栄えたエリアだ。

古くは南北朝時代に「高瀬の津」と呼ばれる軍港があり、菊地一族が朝鮮半島との交易を行っていた。
朝鮮や明の史書にも「達家什(たかせ)」として紹介されており、菊池川の川底からは元~明時代の青磁や陶片が大量に採取され、貿易港として栄えたことが伺える。

戦国時代には加藤清正が肥後入国後、菊池川流域で生産された米の集積、大阪への移出のため、米蔵と港を造った。

次代の細川氏も整備拡充を継続。江戸時代には上流で収穫された農産物の集積地として大いに栄え、人工河川である裏川から直接荷物が上げ下ろしできるようになっていた。
大河ドラマ「いだてん」でも登場した俵ころがしは、米俵の搬出入を容易にするためにつくられた石畳だ。

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明治に入ると、西南戦争で高瀬大会戦が起こり、西郷隆盛の末弟・小兵衛がこの地で戦死している。

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この時、御蔵は焼失したが、現在も江戸時代末期に架橋された目鏡橋(※秋丸目鏡橋、高瀬目鏡橋)が残り、往年の港町を偲ばせている。

※秋丸眼鏡橋は河川工事のため平成に入り移転・復元されたもの

【基本データ】
営業時間:終日
入場料:無料




アクセス方法:
鹿児島本線 玉名駅より徒歩15~20分程度

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肥前の熊と異名を取った龍造寺隆信が不覚を取って敗死した沖田畷の戦い。

その首は、八代まで運ばれる途中、高瀬で急に首桶が重くなり動かなくなってしまったと伝わっている。
丁度、龍造寺、島津の勢力が高瀬川を境目にしていたため、島津エリアに入るのを嫌がったのだろうと言われ、首は願行寺に埋葬された。

その後、明治時代に入り、隆信の300年忌に佐賀の高伝寺に胴体とともに改装されたという。
現在、願行寺には、隆信の首塚として五輪塔が祭ってある。

なお願行寺は、時宗の寺で、国内最古級と言われる高僧像がある。
豊臣秀吉は九州征伐の折、願行寺に宿泊しており、その際賜ったと伝わる太鼓が現存している。

【基本データ】
営業時間:要確認
入場料:無料



アクセス方法:
鹿児島本線 玉名駅より徒歩20~25分程度
こころピアから南に歩いて7~8分程度

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