高知に向かった頭山は板垣退助との面会に成功。
しかし、板垣は気負う頭山に、武力ではなく言論での戦いを主張する。
演説会にも参加し、自由民権運動の熱を肌で感じた頭山は、同運動きっての論客・植木枝盛とも気脈を通じる。
また1878年には大阪で行われた「愛国社」再興大会にも参加。
そこで各地に民権結社設立を急ぐことが決まったのを受け、玄洋社の前身・向陽社を結成したのだった。
頭山は、教育機関である向陽義塾も併設したこの結社で、植木枝盛の招聘を計画。
2ヵ月と短期間ではあったが、植木は来福し、代表作「民権自由論」を完成させている。
2ヵ月と短期間ではあったが、植木は来福し、代表作「民権自由論」を完成させている。
さて、1879年暮れに向陽社は玄洋社と改名する。
「玄界の怒濤天を打つの勢いに則って玄洋社と命じた」ようだ。
同時期、国会開設と不平等条約改正の建白を目的とした「筑前共愛公衆会」(後の共愛会)が組織され、ここでも玄洋社の面々は主導的な立場を担った。
「玄界の怒濤天を打つの勢いに則って玄洋社と命じた」ようだ。
同時期、国会開設と不平等条約改正の建白を目的とした「筑前共愛公衆会」(後の共愛会)が組織され、ここでも玄洋社の面々は主導的な立場を担った。
こうした中で、頭山は民権運動の同士たちとコネクションを築くべく1880年に、東京、東北を行脚している。
……が、1881年。明治14年の政変が起き、政府が自ら憲法作成に取り掛かる。
政府側から国会開設の先手を打たれたことで、共愛会は活動を停止。
玄洋社は、熊本で民権運動の中心となっていた相愛社が呼びかけた九州改進党への加盟も拒否する。
彼らは資金窮乏もあり、下手に動くのではなく、野村望東尼で知られる平尾で山林の開墾や養蚕事業にチャレンジする。そうして来る日に備え力を蓄えたのだった。
それから数年。
1882年、朝鮮半島では「壬午の軍乱」が起こり、親日政権および日本への反乱が起きた。
国内でも、福島県で道路建設のため労役を課され苦しんだ民衆が、自由党員中心に県令に反抗した。
前者は、清の朝鮮支配強化という結果に終わり、後者は警官隊に逮捕された自由党員が壊滅した。
日本国としての国権強化を重視すべきか。あるいはこれまでの通り、自由民権の強化を重視すべきか。
世間での動きを踏まえ、玄洋社内でも、その行く末について国権重視派が民権重視派が対立。
国権重視の中心は頭山。
そして民権重視の中心は、向陽社社長、玄洋社4代社長を務めた箱田六輔であった。
そして民権重視の中心は、向陽社社長、玄洋社4代社長を務めた箱田六輔であった。
その箱田は国会開設の前年(1888年)に自宅で突如割腹自殺を遂げる。
傍らには頭山がいたという。
箱田の死は、玄洋社の未来について2人が考え抜いた末の悲劇であったのかもしれない。
傍らには頭山がいたという。
箱田の死は、玄洋社の未来について2人が考え抜いた末の悲劇であったのかもしれない。
話は前後するが1887年には、頭山が社長を務める「福陵新報」(九州日報の前身)が創刊され、不平等条約改正反対の運動などで盛り上がった。
当時、政府は井上馨を中心に、条約改正案を作成していたが、その内容は国内全域で外国人居住や商活動を認めた上に、外国人関連の裁判には過半数の外国人判事を加えた裁判所で行うというもの。
政府の法律顧問・ボアソナードをして「旧条約に比べて不利益を全国に流す」と警告させる程であった。
これには世間も反発。自由民権派の勢いも増すが、突如、政府は保安条例を発布。政治結社結成や集会を禁止する。
民権運動が挫折し、条約改正問題も振り出しへ。そんな状況の中、井上の後任として大隈重信が外相に就任する。
彼は出だしこそ、メキシコと対等な通商航海条約を結んだものの、アメリカ、イギリスなど列強との交渉にあたり「大審院の判事に外国人を任用する」との改正案を作成。
これが、井上と大差ないとして、世論から反発を受ける。
ここに至り、頭山は玄洋社を代表し上京。
改正案への反対派団体などと演説会を開き、伊藤博文や松方正義などの閣僚を訪問し、論陣を張った。
遂には伊藤博文も反対派になったが、首相・黒田清隆は改正断断行を支持。
この結果を受けて頭山はこう言った。
「格別の意見は持たない。しかし、自分は政府に断じて屈辱的条約を締結させないことに決めた」
そして玄洋社員・来島恒喜による爆弾事件が決行される。
馬車で移動する大隈重信に爆弾を投げつけ、同時に短刀で自決したのだ。
大隈は右足切断の重傷を負い、結果的に大隈の条約改正案も破棄されることになった。
この襲撃が来島による独断であったか、誰かの意を汲むものであったかは定かではない。
ただ少なくとも来島は養子先の的野姓から旧姓に戻し、玄洋社に脱退届を出すなど、周囲に死後、迷惑を及ぼさないよう細心の注意を払っていたことが分かっている。
これは現代の視点から見ればテロであり、許されざる行為である。
その一方で、勝海舟が来島の意を後世に残すべく谷中霊園にも墓が建てたり、当の大隈自身が「いやしくも外務大臣である我が輩に爆裂弾を食わせて世論を覆そうとした勇気は、蛮勇であろうと何であろうと感心する」と語り、谷中へ墓参りもしたという。
当時の巨人たちにしか分かり得ない、立場は違えども「国のため」という精神への共鳴が垣間見える一コマと言えるのではないだろうか。
さて、玄洋社は福岡市中央区舞鶴にあった。
その跡地には、かつて「玄洋社記念館」があったが2008年5月末に閉館。
その跡地には、かつて「玄洋社記念館」があったが2008年5月末に閉館。
現在は、記念碑を残すのみとなっている。
【基本データ】
営業時間:終日
入場料:無料
【基本データ】
営業時間:終日
入場料:無料
アクセス方法:
地下鉄空港線 赤坂駅より歩いて7分