好いーと九州

Mr.Win's Roomの1コンテンツ。 大好きな九州の史跡や喫茶情報などを集めたページ。

2018年08月

P8267319

P8267321

JR博多駅から住吉神社に向けて住吉通りを歩くと左手の建物の前に「人参畑塾跡」と刻まれた石碑が建っている。
この地には、かつて高場乱という女性が開いた私塾・人参畑塾(正式名称は「興志塾」)が建っていた。

高場乱は博多区祇園町で眼科医の娘に生まれた。
幼少期から跡取りとして、男扱いされて育てられた高場は、家業の勉強をする傍ら陽明学を学び、1871年(明治4年)頃、人参畑に塾を開く。

黒田藩の子弟を集めて行われた講義の塾生には、福岡の変(旧福岡藩士たちが西南戦争で西郷軍に呼応して挙兵したが、鎮圧された変)で倒れた武部小四郎、のちに玄洋社の中核となる頭山満、進藤喜平太、平岡浩太郎、来島恒喜といった面々がおり、まさに玄洋社を生み出した塾ともいえる。

石碑の書を書いた頭山満は高場を「無欲、恬淡、至誠、豪快の先生じゃった。教えは徹頭徹尾、実践だ。区々たる文章の枝葉末節など頓着なく、大綱だけを肚に入れさすのだ」と回想している。

今となっては近隣に往年を偲ばせるものはないが、明治~昭和にかけて政財界に大きな影響力を持った玄洋社ゆかりの地として是非訪れたい場所だ。

P8187238

P8187241

P8187242

冷泉公園の南側に、大乗寺跡の石碑がある。
寺伝によれば806年、空海が開基したと伝わり、後に、亀山上皇による勅願寺として再興された。
1644年、福岡藩・二代藩主黒田忠之が再興したが、空襲により消失。
勅願寺だったことから、元寇の際、敵国降伏を祈願した「勅願石」、県指定文化財の「蒙古碇石」、「地蔵菩薩像板碑」なども並んでいる。

P8166780

中世の頃、山鹿温泉街の近くには山鹿城が建っていた。
この地域一帯を治めていた山鹿氏の居城だったが、佐々成政が肥後入りした際、隈部親安に組して抵抗した山鹿重安が敗北し、落城。
城域には、小倉に連行され殺された重安以下、山鹿一族の菩提を弔い、城を清めるための碑などが建立された。

その後、加藤清正により山鹿の治政も安定。
山鹿城跡には、清正が熱心に信仰していた日蓮宗の寺が建立された。
これが圓頓寺で、同宗の特別寺格である本妙寺の末寺という位置づけであった。
時を下って1835年。折しも山鹿灯篭祭り当日に本堂が焼失する災難に見舞われるが、15年後に再建されている。

現在の本堂にある彫刻はこの再建時のものが多く、中では熊本の日蓮宗の様式に則り、正面に日蓮、左側に"せいしょこさん"(加藤清正)が祀られている。
日蓮像は、善行院日助上人が5体彫った祖師像の1つに当たるもの。
そして、清正の位牌は、慶長16年(1611年)6月24日、つまり加藤清正が死去した日にちが刻まれた立派なものだ。

天井には、さくら湯の「御前の湯」天井の龍でも知られる肥後藩お抱えの絵師・狩野洞容による、墨一色の力強い龍も描かれている。(同寺にある山鹿重安一族の位牌に描かれた毘沙門天像も狩野洞容によるもの)
こうした様子からも、山鹿における日蓮宗の中心であったことがうかがえる。

その他、本妙寺3世・日遥上人による題目の書も掛けられている。
日遥上人は、豊臣秀吉による朝鮮出兵時、日本軍の捕虜となったが、清正に資質を見出され、日本に連行された人物だ。
当時12~3歳の若さだったが、日本で学問にはげみ、仏門に入った。

千人灯篭踊りの会場からも近いので、歴史好きは祭りと合わせて参拝すると良いだろう。

P8166750

P8166751

灯篭祭りと温泉で有名な山鹿は、江戸時代、豊前街道の宿場町として栄えた。
豊前街道は、熊本城下と小倉を結んだ主要道路で、豊後街道と共に参勤交代のルートとして知られている。
加藤家が改易され、豊前小倉藩から国替えになった細川忠利が入国した際は、肥後で最初の一夜をこの山鹿湯町で過ごし、温泉をいたく気に入っている。

現在もさくら湯から八千代座にかけて豊前街道界隈には、山鹿を代表する観光スポットが並ぶ。
冒頭の写真も、そんな一角に建っている。
(以下の地図は、やまが門前美術館。地図で上手く場所を指定できなかったが、大体その界隈、山鹿灯篭民芸館から八千代座方面に向かう道すがらにある)

P8177168

P8177164

「いきなり団子」や「武者返し」など熊本にも銘菓は多いが個人的におススメしたいのが「朝鮮飴」だ。
特に歴史好き、それも戦国好きにはおススメしたい。

というのも、この「朝鮮飴」、「せいしょこさん」こと加藤清正が気に入った飴だからだ。

朝鮮飴は、餅米と水飴、砂糖を捏ね合わせ、片栗粉を塗した求肥飴の一種で、元々は長生飴と呼ばれていた。
作り始めたのは、今に続く園田屋の開祖、園田武衛門。

熊本の統治者となった加藤清正が献上された長生飴を食べたところ気に入り、朝鮮出兵(文禄・慶長の役)に篭城時の兵糧として持って行った。(清正は、気候変化に強く、保存性が良かった点も兵糧として優れていると称賛していたようだ)

この後「長生」と名前が似ていることから「朝鮮飴」と呼ばれるようになったという。

細川家が入国してからは朝鮮飴の城中買い上げが続き、江戸時代には参勤交代で将軍や宮家、諸大名への貢物として広く使われた。

筆者は最初食べた時「ボンタン飴に似た感触だな」と思ったのだが、それもそのはずボンタン飴は、朝鮮飴から派生してできた商品なのだ。

現在は製造元が大分減少している朝鮮飴。
買うならば、やはり本家ということで、藤崎宮前駅近く、並木坂にある園田屋で買いたい。
何しろ木造建築はそれ自体が歴史を感じさせるもの。
少量だけ買って(お店が空いていれば)店内で食べさせていただくこともできる。

個人的に「朝鮮飴」にさらなる工夫を凝らし、明治時代に柿の風味を生かしたお菓子として創製された「柿球肥」がおススメ。
外側にかかった甘い片栗粉、そして中にある柿の風味が美味しい。

なお19代目店主の園田健一氏は漫画家でもあり、ファンの立ち寄りスポットにもなっているらしい。
店には出版されている同人誌も販売されている。これがまたどっしりとした店のムードとはいかにもアンマッチで、ちょっと面白い。

P8177161

このページのトップヘ