高場乱は博多区祇園町で眼科医の娘に生まれた。
幼少期から跡取りとして、男扱いされて育てられた高場は、家業の勉強をする傍ら陽明学を学び、1871年(明治4年)頃、人参畑に塾を開く。
黒田藩の子弟を集めて行われた講義の塾生には、福岡の変(旧福岡藩士たちが西南戦争で西郷軍に呼応して挙兵したが、鎮圧された変)で倒れた武部小四郎、のちに玄洋社の中核となる頭山満、進藤喜平太、平岡浩太郎、来島恒喜といった面々がおり、まさに玄洋社を生み出した塾ともいえる。
石碑の書を書いた頭山満は高場を「無欲、恬淡、至誠、豪快の先生じゃった。教えは徹頭徹尾、実践だ。区々たる文章の枝葉末節など頓着なく、大綱だけを肚に入れさすのだ」と回想している。
今となっては近隣に往年を偲ばせるものはないが、明治~昭和にかけて政財界に大きな影響力を持った玄洋社ゆかりの地として是非訪れたい場所だ。