往年の街並みが残る豆田町や温泉を抱えるこの地を代表する偉人が、広瀬淡窓である。
彼が幕末に開いた私塾・咸宜園は、日本中から塾生が集まる大規模なもので大村益次郎や高野長英も学んだ。
その咸宜園はじめ、日田には広瀬淡窓ゆかりの史跡が多数残っている。
彼が幕末に開いた私塾・咸宜園は、日本中から塾生が集まる大規模なもので大村益次郎や高野長英も学んだ。
その咸宜園はじめ、日田には広瀬淡窓ゆかりの史跡が多数残っている。
<広瀬淡窓の生涯>
~咸宜園ができるまで~
広瀬淡窓は豊後日田、豆田の商家・博多家に生まれた。
幼少期は伯父夫婦に育てられ、やがて父の元に引き取られた淡窓は、松下西洋(松下筑陰)などに教育を受ける。
~咸宜園ができるまで~
広瀬淡窓は豊後日田、豆田の商家・博多家に生まれた。
幼少期は伯父夫婦に育てられ、やがて父の元に引き取られた淡窓は、松下西洋(松下筑陰)などに教育を受ける。
高山彦九郎が父・広瀬桃秋を訪ねて来た時、子供の淡窓が漢詩を1日100も作ったと聞いて驚き、日本中に神童として広めたという。
余談だが、13歳で元服した前後の頃、淡窓は羽倉簡堂に教えを施している。
後に儒学者として知られ、川路聖謨や頼三樹三郎を引き立てた簡堂は、当時、豊後で代官をしていた父と共に日田にいた。
さて、14歳になった淡窓は、4ヵ月ほど佐伯に滞在して学ぶ。数年前に松下西洋が出仕のため同地に移っていたので追ったのだ。
そして滞在が終わり、日田に戻った後、福岡に遊学。亀井昭陽の私塾・亀井塾に入門する。(入門のため、内山玄斐の養子となる)
しかし18歳の時に病気になり亀井塾を去り、日田に帰還。
一時は重篤であったが、熊本の医師・倉重湊が救い、数年間の療養生活に入る。
その後、24歳になって「成章舎」を開塾。当初は長福寺の学寮、続いて大阪屋の部屋を借りての出発であった。
「月旦評」と呼ばれる通信簿の貼り出しを行うなど、当時の日本では珍しい取り組みを行ったことが評判となり、入門者も増えたため2年後に、豆田うら町に新たな塾「桂林園」を建築。
ここでは、朝礼や外出などのルールを定めた塾則も設けられた。
この間も病気がちであった淡窓は、眼病を患う。
この影響で、本を読むにあたり、細かい注釈を読まず、太字の本文のみ読むようになったことが、注釈(周囲の意見)にまどわされない独自の考え方を生み出した。
~咸宜園建築から還暦まで~
29歳で結婚してから7年後には、桂林園も手狭になったため伯父(月化)が住む秋風庵のそばに「咸宜園」の建築を決定。
咸宜園は、多い月には230人もの門下生が集う日本一の塾になった。
ここでは、ブラッシュアップされ18段階となった「月旦評」の他、以下のような仕組みが取り入れられていた。
・三奪法(「年齢」、「学歴」、「身分」の撤廃)
入門者は「年齢」「学歴」を問わず同じ級からスタート。
そして「身分」を問わず同じ環境と評価軸で(月旦評の)評価を得る
入門者は「年齢」「学歴」を問わず同じ級からスタート。
そして「身分」を問わず同じ環境と評価軸で(月旦評の)評価を得る
・一人一役
学問だけではなく日常生活も含め、全ての塾生にタスクを与え、共同生活・共同学習を実現させる
学問だけではなく日常生活も含め、全ての塾生にタスクを与え、共同生活・共同学習を実現させる
・倹約のすすめ
塾生への親元からの送金は、2人の商人に預ける。
そして勉学に必要な分以外、遊びで無駄遣いをしないよう管理。
塾生への親元からの送金は、2人の商人に預ける。
そして勉学に必要な分以外、遊びで無駄遣いをしないよう管理。
勿論、勉学だけでなく息抜きもあった。
休みの日には淡窓・塾生が一緒に登山して詩を詠んだり、酒や食べ物を楽しんだり、日本各地から来た塾生たちの故郷の話を淡窓が聞いて楽しんだという。
こうしたシステムが咸宜園への信頼を高め、伝聞され、入門者は益々増加していった。
もっとも日田代官に着任した塩谷大四郎が、淡窓に家来となるよう命令したため、塾以外の雑務に手を取られたり、月旦評の内容を改めさせられたりと淡窓も苦労したようだ。
塩谷は、代官として優れた業績も残したが、こと咸宜園に関しては、私塾から自ら直轄できる官学に改めようとする厄介な存在であった。
日田代官、西国郡代と歴任し、20年近く九州にいた塩谷は、1835年に江戸に移っている。この時、淡窓は54歳になっていた。
この54歳の時、淡窓は「万善簿」をつけようと決心する。
これは、1日を反省し、善い行いを〇、悪い行いを●として記録し、〇-●が1万になるようにするものだ。(実際、淡窓は、67歳の正月29日に、1万善を達成した)
~晩年~
度重なる病気で長期休講した時期もあったものの、淡窓は還暦を迎える。
60代前半の頃には、大村藩(長崎県)、府内藩(大分県)に招かれて政事や学問を教え、長崎ではオランダ館や唐館にも訪れている。
その後、75歳で亡くなるまで、咸宜園で引き続き多くの人材を育成した。
死に際しては、自身の墓碑を自ら書いている。これは、門弟たちが自身を褒め過ぎるであろうことを嫌ったからと伝わっている。
<咸宜園>
現在、咸宜園は
・関連史料が展示されている「咸宜園教育研究センター」
・淡窓夫婦や門下生が寝起きした東塾跡
・塾主の講義や塾生の学習の場となった講堂跡
・伯父・月化の居宅であった秋風庵
などが残っている。
なお冒頭の写真は、順に「広瀬淡窓肖像画」、「月旦評」、「秋風庵」である。
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